限りが有るということ。

姪二人と犬を連れて散歩に出かけた。
無性に喉が渇いたので飲み物を買おうと提案してみる。
それぞれ欲しいものを聞き自販機の前で盛り上がる。
と、気づくと財布の中には130円しかない。
「一本しか買えないのでじゃんけんです。」
とじゃんけんをしてみるが3歳児はチョキが出せないことが発覚。
収拾がつかない事態に。
「一本しか買えないので相談して決めてね。」
と言うと
「二本買えばいいじゃないか。」
とのご返答。
だからお金が、ってこの子達に貨幣価値をふにゃふにゃ言っても理解してもらえそうにないので、最年少提案の「桃入りシュワシュワする奴」を分け合うことで決着をつけた。
突然なんだか姪の「二本買えばいいじゃないか。」
って言葉にすごく不安を覚えた。
今の子供たちはすべてのものが無限にあると感じているんじゃないか。
最近の親は子供のほしがるものを積極的に与えていると聞く。言ってみれば親にねだれば無限に要求するものが出てくると思ってはいないか?
僕らの小さいころは、限り有るものをけんかしたり分け合ったり、ルールーを作って共有していたはずだったのに。
子供だけだろうか、今の大人は何かの限定品には目くじらを立ててるが、そのほかのものに限りがあることをどのくらい認識してるんだろうか。
僕らの小さかったころは食べ物や、エネルギーや、水は、いつかなくなると脅されて夜も眠れないことも少なくなかった気がするけど。
いつの間にか物が氾濫してすべてが無限にあるように感じる今日。
物を分け合ったり、争ってみたり、譲ってみたり。それをしていない子供たちはどんな大人になるんだろう。
寿命が無限ではないことは承知の通りだが、日常でそのことを重視している若い人は少ない。愛情は無限であるとか、人間は無限の可能性があるとか、無限に続きそうな苦しみとか、無限のパワーがなんとかこうとか…。
実社会で無限なことなんてほとんどない、いやない。無限と錯覚できても無限であったためしがない。無限なんて所詮空想で、理想としての無限でしかないわけで、無限に思えるものも諸行無常に変化していく。
もっと有限的に物事を考えなくてはいけないのではないかと思うしだい。
有限だからこそ大切にしたり、愛情をこめたり、思いやりがかけれるのではないだろうか。
子供にもすべてのものは有限であり、大切にしなければならないものがたくさんあるのだぞ!と教えてあげないといけないんではないだろうか。
何でも無限に感じられるこんな時代。ホントに大事なのは心も出会いも苦しみも幸せも含めてすべてのものが有限であることを思い出す時期なんじゃないんでしょうかね。
いや、フっとね。
フっと思っただけなのね。

Related Images:

カテゴリー: つれづれづれづれ パーマリンク

3 Responses to 限りが有るということ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です