心象たち

特に人間関係で悩んでるわけじゃない。
悩んでないわけでもないが。
ふと、自身が自身以外の他者との関係を考えたとき、
対象の他者とはいったい何なのか。
その人の断片的な振る舞いや言動や容姿や、
ほとんどが不確かな危うい情報で構成されている事に気づく。
良いところ、悪いところ、好きなところ、嫌いなところ。どうでも良いところ。
自分の親さえも実際のところはっきりとはわからない。
他者と自分の感覚や記憶を共有化しない限り、いや、例え可能だとしたとしても他者を理解できないかもしれない。
理解したと錯覚させるのは、自分の中にある寄り集められた情報から構成された他者の心象を眺めているからなのかと。
たとえ物理的接触があったとしても心象に情報が付加されているだけで、
本質を理解することはできないのかと。
心象に好意を抱く。
心象に敵意を抱く。
心象同士を眺めあい、憧れと錯覚する。
心象を眺めすぎて、他者の本質を見抜けない。
恋愛はなどは特にその傾向が強いように感じる。
心象に対して自身の願望を添付していき、実際の事象との整合性を保とうとする。
心象を偶像として崇拝し始める。
別段、私も悪い恋愛をしてきたわけじゃない。
偶然よい心象に出会えてきたと思えるのも自身の偶像を作る能力なのかもしれない。
心象のために日々努力し、心象のために己を鍛える。
複数の心象で構成された社会といわれる中で生きている。
本質はそこにあるのかもしれない。
昨今の殺人事件や、自殺報道。食品偽装や、人権侵害、そして戦争。
きっちりと心象としての他者の存在があれば、イメージできれば、上のようなことは起きないのかもしれない。
昔のように本質に近い心象を作れる環境、すなわちより深いコミュニケーションを持てなくなっている。
コミュニケーション=本質に近い心象作りなのかと。
見方を変えれば自分自身も自分の作り上げた心象で、プライドや、こだわり、
価値観なんてものは自分が勝手に作り上げたもので、一度できてしまった己の心象を壊すことが、自身の成長ということなのかと。
人を心象という言葉一つで語るには余りにも無理があるとは思うが、
客観性を持てば、ある意味当たっているようにも思える。
今から生まれてくる人々には、よりよい心象または偶像の作り方や壊し方を指導していくことが大切で、この世知辛い世の中をスムーズにしてくれるのかと。
ふと、思ったりしたりした….。

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